胡蝶語り

shioumiの日記みたいな語り まあまあ日刊

6月26日 晴れ 人生で「撮れ高」がある期間は集中している

 

突然だが、人生において、「撮れ高」がある期間というのは、集中していることに気がついた。

 

撮れ高」とは、動画や写真を取るときに、いわゆる「使える」動画や写真の量のことだ。撮影したすべての量と、「使える」良質な動画や写真の量との比率を歩留まりなどとも呼んだりする。

 

人生における「撮れ高」とは、以降の人生においても役に立つような、高品質の経験の比喩的表現だ。

 

コツコツと積み重ねて、毎日定期的に「撮れ高」があるのが理想だが、これまで人生を送ってきた経験から言わせてもらえば、そのように定期的に「撮れ高」があることなどなかった。あるときはあるし、ないときはまったくない。偏在しているものだったのだ。

 

ところで、原初、人間は狩猟や採集で生計を立てていた。

 

狩りである以上どのような名人でも好不調の波があり、獲物がたくさん取れるときと、一匹も取れないときがあるだろう。採集も同じだ。一年性の植物が多く、決まった季節に実をつける。やはり偏りがある。

 

毎日定期的に収穫があるという考え方は、工業的な発想なのだろう。

 

工業ではひとつのものを作るのに、あらかじめ決められた手順で作る。イレギュラーは工程の未熟さゆえに起こるものだとされる。偏りは悪だ。何事も標準偏差内に収め、計画どおりに毎日生産し、収穫する。

 

しかし、人間はいきものだ。となれば、自分もいきものだ。

 

いきものであれば、成長が毎日一定であるはずもない。進んだり止まったり、ときにはいきつ戻りつしながら成長するのがいきものというもの。だから「撮れ高」も偏っていていいし、もともとそういうものなのだ。

 

だからチャンスが来たと思ったときは、やりすぎじゃないかというくらいに前のめりで取り組むのがいい。「撮れ高」が稼げるときにできるだけ稼いでおくのが、正しい生存戦略だということになる。