胡蝶語り

shioumiの日記みたいな語り まあまあ日刊

6月13日 晴れ 比較することで知ることができる

今日はお昼にヘルシーランチを食べた。

 

野菜をたくさん食べただけで健康になった気がする、お気軽な気質の僕だ。楽しいことには何も考えずに乗っかっておこうという考え方をする種類の人間だ。せっかくの楽しい感情を遮る理由は特にないじゃないか。このまま軽い精神をしっかりと保っていこうという所存だ。

 

ときに考えるのを止めたほうが、幸せに生きることができる気がしている。考えても思考は深まり、ときおり納得も得られるけれど、幸福感が得られることは少ない。それよりも考えを止めて忘れてしまったほうが幸せになれるような気がする。

 

「幸せなブタよりも、不幸せなソクラテスでありたい」と言ったはJ・S・ミルだったか(調べてない)、しかしきっとこの人はマゾなのだろうと思う。

 

真理を追求する姿勢は尊敬するし、実際彼のことを偉大だと思うが、僕ような凡人はソクラテスを気取ったところで、世のためになるような箴言はひねり出せないのであるからして、何もかも忘れてブタのように目の前の欲望を漁って生きることも、選択肢のひとつであるかも知れない。

 

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苦難の末に手に入れたものでも、しばらく経てばそれが当たり前になり、さらに時間が経つと、昔の人が越えた苦難など忘却の彼方に押しやられてしまう。

 

この世の中はそういうふうに出来上がっているのだけれど、今ある大切なものをきちんと把握して、感謝を忘れずにいたいものだ。

 

人間、なかなか手が届かない遠くにあるものは、よく見えるし、追い求めてしまいがちだ。一方で、目の前にあるものは、それがどれだけ貴重なものでも、見落としがちになる。僕のことだけでなく、一般によく聞く話ではないだろうか。

 

目の前のもののほうが良く見えそうなものなのに、見落としてしまうのだ。

 

目の前の大切なものを見落とさないためには、努力がいる。

 

具体的には、目の前以外のことを知る努力だ。たとえば過去や歴史。たとえば外国。たとえば、どこかの誰かの一生。

 

目の前以外のことを知り、比較することで、目の前にあるものへの理解が深まり、見落とすことがなくなる。

 

簡単な例をあげてみよう。スイッチを押せば電気照明がつき、夜でも活動できる。電気照明以前には油灯や蝋燭を明かりにしていた。それもお金がかかるものだったので、夜は寝るべき時間だった。過去、民衆には発言権はなかった。貴族という尊い血筋の人という不思議な存在の気まぐれで、民衆の財産や命は奪われて当然という時代があった。

 

例を続ける。日本から外に出れば、デモでしか反対の意志を示せない、他に家を守る手段が無いコミュニティがある。彼らは普段豊かで平和に暮らしているが、選挙制度がないので、自分たちの意志を国政に反映できない。そして国政によって、恣意的な法律によって、自分たちの幸せや尊厳が奪われることを恐れる人たちがいる。

 

温かい人たちに囲まれて、幸せに生まれ、暮らし、死んだ人がいる一方で、なんの脈絡も意味もなく、多数に暴力を受け、大怪我をしたり、尊厳を奪われたり、命すら奪われた人がいる。

 

比較することで、自分がどこに立っているかを、知ることができる。

 

人間は、関係性の中で存在しているという一面がある。なんだか認めるのが悔しいけど、”人の間”と書いて”人間”とは、良く言ったものだ。