胡蝶語り

shioumiの日記みたいな語り まあまあ日刊

7月13日 曇りのち雨 冒険家という職業がリアルだった時代

 

天気が悪くて洗濯物が干せない。今年の梅雨はちょっと長すぎる。

 

 

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ふしぎの国のバードの6巻が本日発売だった。Kindleで予約購入していたので、朝にダウンロードして読む。とても楽しんだ。 

 

 

 自分のことというのは、一番わかっているようで、実はわかりにくい。当たり前のことが多すぎて、説明するまでもないと感じてしまうようだ。自分にとっての自分の特徴が、他者にとってはまったく特徴でなかったりする。

 

同じように、自分の国のことというのもわかりにくい。生まれたとき、ある人の半径5キロ圏内に存在している文化は、すべて常識になるだろう。けれどその常識は、より多くの人から見ればとてもめずらしいものだったり、非常識だったりする。

 

文化というのは場所だけでなく時代によっても変わるものなので、さらに自分たちだけでは把握しにくい。外部の冷静な観察眼があって、初めて可視化される、そういうものだと思う。

 

ところで、日本語の標準語ができたのは20世紀に入ってTVの全国放送が始まってからだと言われる。以降、TVの電波に乗ってトレンディドラマなどを通してひとつの文化・価値観が集中的に放送され、日本国内の地域差は、ごくごく小さくなっている。 

 

けれどその前の時代は、地域ごとに文化・風俗・価値観が違うのなんて当たり前だった。19世紀以前は、話す言葉さえ地域によって違ったのだ。江戸末期の攘夷志士たちが、共通語として漢文を用いたというのは良く聞く話。

 

そんな19世紀以前の時代、体を張って地域を歩いて見聞録をまとめる「冒険家」という職業ーーというか、そういう種類の人たちがいた。

 

彼ら彼女らは、自分たちの興味に合わせ、欧州世界に開かれていない土地や国を訪れ、人里を巡るときもあるし、現地の人も通わない秘境に挑んだりもした。欧州では博物学全盛の時代、彼ら冒険家の手記、探検記、見聞録、持ち帰った珍しい動物の剥製、植物の標本などは人類全体の視野を広げ、知恵を進歩させた。

 

彼ら冒険者は、19世紀には世界の姿を伝える貴重なメディアとしてニーズがあり、真面目な職業として成立していたのだ。インディー・ジョーンズの世界は、ファンタジーだけどファンタジーではない側面もあるのだ。

 

 

前置きがとても長くなったが、冒頭で紹介したマンガは、冒険家イザベラ・バードが明治時代の日本を旅している様子を漫画化したもの。これには底本があり、イザベラ・バードは実在の冒険家だ。

 

マンガでは、当時の日本の風俗が描かれるのはもちろんだが、冒険家としての彼女の独自の使命感と情熱が伝わるのがいい。冒険家と言えば昨今はRPGぐらいのなかでしか聞かない言葉だけど、そういう職業がリアルに存在した世界、というものを想像すると、とてもロマンを感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今日のことわざ: Today's Proverbs and Sayings

 

 

Don't get mad, get even

 

(怒るな、やり返せ)